なにに一番『執着』を持っているのか?というのは、人それぞれだと思います。
ある人にとっては、自分の生命であったり、またある人には物(お金や所有物)だったり、その対象が、自分の愛する人であったりすることもあるでしょう。
僕自身にとっての最大のカルマは自我、アイデンティティともいえるものでした。
これまで生きてきた中で身につけた、『人生』というものへのあらゆる観念、ポジティブに考えれば、ポジティブな現実が引き寄せられるはずだ、という、
いま思えば浅はかな思い込み、そして、他人と比べて、自分は特別な人間に違いない、という思い込み。
それが、自分にとって、もっとも残酷なかたちで粉々に壊れてしまったというのが、この春、僕が経験した『カルマの燃焼』のクライマックスです。
阿部敏郎さんの書籍で、『悟りとは、自分が取るに足らない存在であることを知る』といったことが語られていました。
今なら、その感覚がよくわかります。
自分は、何者でもなく、他人の存在、僕の話を聴いてくれる人、このブログを、こうして読んでくれる人、そしてコメントやメッセージを通して、僕にコンタクトを取ってくれる人。
そういう人たちがいるからこそ、自分は自分で在れるのです。
世界に人の縁が、いのちの縁がつながっているから自分が在るのです。
この世界が在るからこそ、自分の人生を生きることができるのです。
人生の中で、自分(自我)が達成できることなんて、本当にわずかでしかありません。
たくさんの素晴らしい人たちとの出会い、そうしてつながる縁の力を借りるから、人生の中で、かけがえのないものをいくつも創り出していけるのです。
肉親や親戚、恋人、友人といった、狭い範囲の人間関係だけを大切に思うのではありません。
そういう狭い視野は、あなたの世界、そして可能性を狭めることになります。
大げさな話ではなく、人類、そしてこの世界に対して、あなたがどう貢献できるのか?
それが、人生からあなたに与えられる問いかけです。
あなたは、その問いに対し、責任を持って、一つひとつの『行動』を通して、応えていくのです。
自己啓発やスピリチュアル、成功哲学に対して、理解が浅い頃は、どんな状況・環境であっても、自分らしく在れば大丈夫、自分は、環境がどうであっても自分でいられる、
と考えていましたが、後になって、これがいかに傲慢・怠慢・無知に支配された『自分本位』な思い込みであるかに気づきました。
環境の中で、自分だけが特別で在ろうとすれば、それだけ『自他の分離』が生み出されて、苦しみがやってくるのです。
『現実との調和』とは、今いる環境に無理やり合わせることではないのです。
それは、あなたが一番自然で在れる環境を、自ら選んで踏み出していく、ということです。
『自然のままに』という言葉は、耳に優しいのでよく誤解されます。
苦痛(不快)を避けて小さな『快』に逃げ込むことが自然ではありません。
生まれた場所から何千kmも、その生涯をかけて回遊するヨーロッパウナギや、季節によって旅をする種々の渡り鳥。
自然でいることは、その場に留まり続けることではなく、その命のステージに合わせて、環境を変え続けることだと言えるのです。
人間も同じです。
あなたという存在が、存分に輝けるような環境を求め続けることは、自然の摂理にそったことなのです。
人によって、それは、今いる環境に対して『行動』を起こし、自分に合った環境に変化させることかもしれないし、今いるのとは別の、新しい環境に移ることなのかもしれません。
どちらにせよ、あなたの心の底、真我からの声に耳を澄まし、今、身を置く環境に対し、少しでも『不快』や『違和感』を感じるのなら、何かしらの『行動』が必要なのです。
それは、不安や恐怖をともなうことです。
習慣を変えること、未知の領域に踏み出すこと、最初は、自我レベルの努力を要することです。
『勇気』という言葉にも言い換えられます。
ただ、それを乗り越えていくことで、あなたの魂が磨かれ、成長していくのです。
そして、ここで踏み出すその一歩が、今、あなたが感じている苦しみや不快に対しての、根本的な解決に到る、偉大な一歩であることを自覚しましょう。
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