こんにちは、さこっしーです。
以前書いた記事、
の中で、般若心経の『色即是空、空即是色』を引用しましたが、今読んでいる苫米地英人氏の『お釈迦さまの脳科学』に、この般若心経が正統なものではなく、中国で生み出された『偽経』ではないかという説が述べられていました。
歴史的な考察と般若心経自体の内容から、その根拠が述べられています。
ブッダの悟った縁起と空の概念を考える
『色即是空、空即是色』というと、仏教独自の『空』という概念を表す、代表的なフレーズだと思っていましたが、どうもここにも誤りがあるようですね。
まず、仏教用語である『色(しき)』というのは『存在』にあたる言葉です。
仏教では、すべての『存在』は『物質的現象』としてみなすのですが、この時点で物質とエネルギーが互いに変換できるというアインシュタインの相対性理論に通ずるものがあります。
『色』は、認識の対象となる物質的現象の総称で、感覚器官(眼・耳・鼻・舌・身・意)によって認識する対象とのことです。
ここで、感覚器官が通常考えられる五感に加えて、『意』つまり意識が含まれていることに注目です。
『色』は単に『物質』だけを指すものではなく、苦しみや悲しみ、喜びといった意識が認識する『感情』といったものの存在も含むわけです。
『色即是空、空即是色』では『色(存在)』に対する概念として『空』という言葉を持ってきていますが、『色(存在)』の反対の概念としては『無(非存在)』という言葉が当てはまります。
『空』というのは、『色(存在)』と『無(非存在)』の両方を包括するさらに抽象度の高い概念になります。
『有』でもあり『無』でもあるというのは一体どういう概念なんでしょう?
『空』というのは、ブッダが悟った『縁起』の概念を説明したものと言われています。
『縁起』というのは、この世のすべてのものや事柄が『関係性』を持って互いに支えあっているということを言います。
例えば、一人の男性がいるとします。
その人は、妻にとっては夫であり、子どもから見れば父親であり、会社に行けば課長であったり、上司であったり部下であったりするわけです。
つまり、人(自我)の存在とは、情報によって作り出されるものであり、周囲のあらゆるものとの関係性(縁)によって、自分自身でいることができるのです。
また、同様に自分の存在が、周りの存在を支えているとも言えます。
中観は、悟りや煩悩についても価値を認めるということ
『空』というのは、単に存在の有無というレベルではなく、すべてのものに実体がないと考えることです。
例えば、人を人として認識できるのは、人間の脳のRAS(Reticular Activating System)という、重要度の高いものだけを認識する機能のおかげなのです。
重要度の低い情報を遮断して、曖昧にものを見てくれるおかげで、僕たちの脳は、人を人として認識することができるのです。
もし、あるがままに認識してしまえばどうなるでしょう?
人の身体は数百兆個もの細胞で構成されているので、細胞の集まりに見えてしまうかもしれません。
もっと細かく見れば、さらに多数の原子の集まり、素粒子レベルで考えれば、それこそ『有』と『無』を繰り返す点滅している存在に見えるわけです。
『空』というのはつまり、すべてが『現象』と考えるということです。
実体はなく、関連性(縁)によって起こる現象だということです。
こうした世界観から、仏教ではすべての煩悩をなくしてしまって『悟り』へ到達することを追求する、すべてを『空』と考える『空観』という思想が生まれました。
一般的に考えられる修行僧のイメージですね。
それに対し、すべてが『空』であるとしても、その関連性(縁起)によって生まれる意味の方に価値を置くという思想が『仮観』です。
『空』とか難しいことを考えず、煩悩を追求すればいいという考えですね。
これは宗教をもたない多くの一般の人に当てはまるかんじでしょうか。
さらに、仏教にはその中間である『中観』という思想もあります。
すべてが『空』であるということを理解し認識した上で、関連性(縁起)によって生まれる意味の方にも価値を認めるということです。
『悟り』についても『煩悩』についても価値を認めるということですね。
『毒矢のたとえ』というエピソードの意味
仏教の初期の経典『阿含経』には『毒矢のたとえ』というエピソードがあります。
ブッダが弟子に『死後の世界はありますか?』『生まれ変わりはありますか?』と問われてこう答えたといいます。
つまり、世界観とか自我とか死後の世界とか、そんなことを考える暇があったら、ほかにやることがあるだろ、今の現実を大切に生きれば、そういうことは気にならないよと。
要は、知識は役立てるために身につけるもので、知識をつけること自体を目的にしちゃうと良くないということですね。
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