瞑想をすることで、すでにある当たり前に気づくこと

瞑想をすることで、すでにある当たり前に気づくこと生き方・考え方
さこっしー
さこっしー

こんにちは、さこっしーです。

以下の記事で、目覚めた後に変わったのは『現実の認識』『心の動き』だとご紹介しました。




今回は、その『心の動き』のお話です。

『瞑想状態で生きる』というニュアンスになると書きましたが、これは『覚醒』『悟り』といったこと、スピリチュアルに興味のある方にとっては、恐らく最も知りたいことの一つでもある『自我をなくすこと』つまり『無我』という状態にも関わることです。

この辺りは、結構誤解されていることも多いように感じます。

僕自身も、もともと『瞑想』というものがよくわかっていなくて、『得意じゃない』とずっと思っていました。

The Secretに出会って自己啓発や成功哲学に傾倒し始めたのが、2014年のことです。

もともと、スピリチュアルやオカルトなもの、宗教などには抵抗があったので『スピリチュアル』という言葉よりも『潜在意識』とか『深層意識』という言葉の方を好んで使っていました。

ですが、勉強していくうちに、最先端科学に携わる物理学者、医師、その他の科学者といった、いわゆる『左脳』の人たちの間でも『スピリチュアル』が市民権を得ていることがわかり、あらためてスピリチュアルというものを左脳的にとらえだしてみたのです。

同じような経緯から『瞑想』というものの合理性にも注目し始めました。

日本には『禅』というものもあるので『瞑想』というと、どうしても高尚でなんだか難しいものというイメージがあるかもしれません。

個人的体験なので、最初のうちは『ほんとにコレであってるのかな?』って不安にもなりますし、慣れてきても『覚醒してる人の瞑想は、こんなもんじゃないはずだ』と、自分で勝手に届かない幻想のイメージを創り出してしまいがちです。

僕も、正式に瞑想の指導などを受けたこともなかったのでそうでした。

何に関しても同じですが、しっかりしたコーチやメンターを見つけて指導してもらうというのが、一番理に適ったやり方だと思いますね。

僕が『お金で幸せも買える』と思うのは、こういうスピリチュアルな方面でも、きちんと対価に見合ったものを提供してくれる人が、世にたくさんいるからです。

お金に対するブロックが解消できれば、この世界で経験したいことのほとんどが、お金という豊かさのエネルギーで解決できるのです。


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瞑想をすることで、すでにある当たり前に気づく


目覚める前の僕にとって、『瞑想』とはクリアリングメソッドの一つでした。

10~15分ほど静かに瞑想すると、頭の中がスッキリして気分も落ち着きます。

その後に取り組むことの能率も大きく上がります。

クリアリングメソッドとは、自分の感情を鎮めたり、コントロールするためのテクニックです。

有名なのはホ・オポノポノとか、セドナメソッドなどですね。

カルマの燃焼が始まった時期は、とにかく感情のジェットコースターに乗っているようなもので、常に何かしらのクリアリングメソッドにすがっていました。

敬虔な宗教信者が念仏やお経を唱えたり、お祈りを捧げるのと同じですね。

個人的には『The Key』に載っていたメソッドの一つ、感情の中に飛び込んでみるというのが、カルマを燃え尽きさせるのに一番近い方法だったように感じています。

これは、人によって相性などもあることだと思います。

いろいろと手法を勉強して、自分の自我のクセに合った方法を見つけるのがいいと思います。

『自我の個人差』というものこそが、この世界に多様性や変化をもたらす素晴らしい『贈り物』なので、自分に合うものを楽しみながら探していくのがいいんじゃないでしょうか。


スピリチュアルとは、生き方


改めて『瞑想』の話に戻ります。

『瞑想』とは、現実逃避や現実から離れるために行うものではありません。

『目覚めた人は、一日のほとんどを瞑想状態で過ごす』ということが言われますが、一般的にとらえられている『瞑想』のイメージで考えると、覚醒者が『目覚め』てるのにいつも目を閉じ眠ってるように見えるヘンな人になっちゃいます。

スピリチュアルとは、知識や形式ではなく『生き方』だということです。

現実を離れて精神世界にひたるというのは、ナンセンスです。

『現実』と『スピリチュアル』の間に境界はないのです。

習慣として日常生活に溶け込んでこその、スピリチュアルということですね。

『瞑想』とはむしろ『現実をあるがままに認識すること』に近づくプロセスだと言えます。

簡単に言えば、起きている間で、自己(セルフ:全体性としての自分)の存在に気づいている状態こそが『瞑想』だと言えます。

もちろん、とらえ方はいろいろありますし、言葉の定義も人それぞれです。

僕自身の解釈だと思ってください。

そういう意味でいうと、僕自身も『覚醒』を自覚して以来『自己に気づいている』というのが、一日を通してどんどん普通の状態になってきています。

参考記事でご紹介した『現実の認識』というのが、目が覚めたときに見える光景だとすると、このブログや書籍、人の話などでそういう情報に出会うのは『夢の中でこれは夢だと気づく』ということ。

臨死体験や瞑想によって一瞬だけそういう光景が見えるのは『一瞬目が覚めた状態』というわけです。

人によっては、そこで『二度寝』に入ってしまうわけですが、上記のようなことが起こった時点で『眠り』は浅くなっているので、確実に『目覚め』に近づいていると言えるのではないでしょうか。


自己に気づくという状態が、『無我』ということ


『目覚め』た後の世界に、意識してフォーカスを向けていればなおさらです。

僕自身が『目覚め』たばかりのときは、夢うつつで、夢と現実の間をうろうろしていました。

つまり、自分が『気づいた』こと、それが本当なのかわからなくて、確信が育つのにある程度の時間を要したということです。

ここまで書いてきた『自己に気づく』という状態が、まさに『無我』ということです。

『無我』をイメージしたければ、たとえば、自分がいま生まれたばかりの赤ん坊としてここに存在していると考えてみることです。

もしくは、犬でも魚でも鳥でも虫でも、人間ではない何か別の『いのち』として『自我』をもたない存在として『いまここ』にいると考えてみるのです。

あなたの目の前には、どんな現実が認識されているでしょう?

このブログの文字は、直線と曲線を組み合わせた単なる模様に見えるでしょう。

見慣れた部屋にあるものも、まったく別のものに見えてくるはずです。

耳に聞こえる誰かの声も、単なる意味のない音の集まりでしかありません。

そういう『純粋ないのち』を疑似体験してみたときに、そぎ落とされるもの、常識・観念・人間関係・その他の様々な思考そういったものすべては、世界の在り方には一切関係なく、あなたの自我が勝手に創り出している幻想のフィルターだということです。

その幻想のフィルターを外すことが『無我』を体験するということです。

目を閉じて『瞑想』する際に、そういう『疑似体験』をイメージしてみるのもいいかもしれませんね。

『無我』に関する誤解もあって、これは、誰しもが経験しているのに、忘れているというほどでもなく『気づいていない』だけのことだったりします。

そう、あなたは、実はもうすでに『無我』を体験しているのです。

それも結構な頻度で日常的に。

『覚醒』『目覚め』とは、どこかにたどり着くことではなく、すでにある当たり前に気づくことなのです。

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