自我を超える、本当の自分ってどんな自分なんだろう?

自我を超える自分生き方・考え方
さこっしー
さこっしー

こんにちは、さこっしーです。

今回は『自我を超える自分』というテーマでお話したいと思います。

『自我を超える自分』というと、今までの僕の言葉でいうと『真我』の話かと思うかもしれませんが、今回は、そのちょっと手前、自我というものを拡大して解釈したときに定義される『自分』についてです。

スピリチュアル側の人は当たり前のように、自分が自我以上の存在という話をしますが、それをスピリチュアル耐性のない人にもわかるように説明してみようという試みです。

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本当の自分って、どんな自分なんだろう?


スピリチュアルなものに抵抗のある人、そういう世界に触れてこなかった人にとって『自分』というものは、どう定義されるでしょう?

一般的な認識では、身体と心をもった存在という理解だと思います。

心というものが『自我』にあたり、その人の個性、アイデンティティを構成するものとなります。

一般の多くの人にとって『自分』というのは、思考や感情を認識する精神と、五感の認識を持つ肉体の二つで定義されるわけです。

最近は、潜在意識のことを勉強する人も増えてきているので、理解度の高い人であれば『心』のより深い部分までを含めて『自分』だと考えているでしょう。

それに対して『自我を超えた自分』とは、心と身体で認識する『現実』のことです。

一般の常識的に生きてきた人にとっては、この部分が飛躍しすぎていてブロックになってしまうかと思います。

なぜ、認識する『現実』『自分』になるのかを考えてみましょう。

同じ出来事でも、認識の仕方は人それぞれ違う


人間の脳には『RAS(Reticular Activating System)網様体賦活系(もうようたいふかつけい)』という機能があります。

これは、簡単に言うと『重要度の高いものだけを認識する』という機能です。

わかりやすくいうと、木の集まりを見て森だと認識するということです。

よくよく考えてみてください。

森を眺めたときに、一本一本の木々の細かい部分まで認識してしまったら、いくら驚異的な性能をもった人間の脳であっても、情報処理が追いつきません。

なので、脳がオーバーヒートしてフリーズしてしまわないように、ものごとを曖昧に見るフィルター機能というものが、もともと備わっているのです。

だから、お互いに顔を見合わせて、細胞の集まりとか分子の集まりではなく、人間同士として認識することができるのです。

このRASは、人間が認識するすべてのものごとにかかるフィルターです。

目に見えるものだけでなく、状況や現実の認識といった『概念』的なものにまでかかります。

空が曇って気温が下がってくるというバラバラの現象を自分の中で結びつけて、『もうじき雨が降りそうだな』と認識するのも、このフィルターのはたらきです。

フィルターというのは、一度経験したことでインプットされて記憶に蓄積された『パターン』それによって、近似的にものごとを『パターン認識』すると言うことです。

したがって、RASというものは万人に共通ではなく『その人の過去の個人的経験に100%依存して形成される』ということになります。

一人ひとりの人間が、独自の性格・個性『自我』というものを持つのと同様に、世界に生きる70億人の人類が70億通りの個別のRASという『認識パターン』を持っているのです。

そして、この『認識パターン』はある意味『その人のすべて』だと言えます。

RASのかかり方によって、人が認識する世界や現実というものは、まったく別のものに変わるのです。

現実は、人の数と同じだけ存在する


たとえば、あなたに一人の友人がいるとします。

あなたから見た『彼』は、心優しく人の痛みがわかる、素晴らしい人物に見えます。

ところが、その友人が働いている職場の直接の上司から見た『彼』は、時間や約束事にルーズで情に流され、仕事のできないだらしのない人物に見えます。

多少の誇張はあれど、現実としてありえない設定ではないでしょう。

本来なら同じ一人の人間として存在するはずの『彼』に対して、それぞれの視点・フォーカスが、あなたと上司のRASが『彼』を完全に別の人間として定義しています。

あなたは『彼』がもつ多様性のうち『優しさ』にフォーカスできているものの、反対に『怠慢』なところは見えていないのです。

このフィルターは『彼』を見るときだけはたらくのではなく、あなたが認識するすべての現実に対してはたらきます。

あなたは、接するすべての人の『優しさ』に敏感で、反対に『怠慢さ』には鈍感です。

あえて極端に言ってますが、そういう傾向を持つということです。

あなたが、あなた自身を見るときも同じです。

『他人は自分の鏡』というのは、当たり前のことなのです。

あなたが他人を見るときには、あなたのすべてだとも言える、固有の『認識パターン』を通して見るからです。

これは、特定の個人に対してだけ言えることではなく、あなたが認識する現実の全般にわたって言えます。

あなたは、あなた独自の、世界にたった一人、あなただけが通ってきた個人的経験によって創られた『認識パターン』で、この多様性に溢れた現実を、あなた独自の解釈で認識しているのです。

もし、あなたとまったく同じ境遇や環境、状況に別の人が置かれたとすれば、どうなるでしょうか?

常識的な解釈の世界観で考えると、世界の中で『あなた』この場合はあなたの肉体と精神だけが、他人と置き換わるように見えます。

ですが、実際は、あなたが別の認識パターンを持った他人と置き換わった時点で、現実もまったく別のものに変わってしまうのです。

ここまで考えれば『現実』というものは『個人』の数と同じだけ存在するということがわかるかと思います。

つまり、この『現実』をもって『自分』というものが定義できると考えても不自然ではないのです。

理性的な、左脳的な理解としては、ここまでたどり着けば十分だと思います。

これに、自分自身の実体験レベルで、他人は自分、世界は自分だということが腑に落ちれば、まずは第一歩。

そこから進んで、さらにフィルターを通さずに現実のあるがままの認識ができれば、その先にある『真我』というものが理解できるのではないでしょうか。

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