情報と記憶の本質、仏教から人間の本質を考えてみる

情報と記憶の本質、仏教の唯識論から人間の本質を考えてみる生き方・考え方
さこっしー
さこっしー

こんにちは、さこっしーです。

今回は、『知識とは何か?』『情報とは何か?』ということについて解説していきたいと思います。

『情報』とは、何らかの物理的・物質的な構造、そして配列の中に込められた『意味』だと言えます。

コンピューターのHDDは磁気配列に『情報』を記憶します。

動物の脳内にはニューロン・シナプスというリレーショナル(関係的)な配列構造があって、そこに『情報』が記憶されます。

生物の細胞核内の遺伝子、そのDNA内には塩基配列として『情報』が記憶されています。

そして『関係性』によって起こるこの世界も『情報』をもっています。

あらゆる『存在』『現象』の背景にある、表面的には観えない『つながり』こそが『情報(知識)』と呼ばれるものの正体です。

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情報と記憶の本質、仏教から人間の本質を考えてみる


数ある宗教の中で、仏教だけが物質と情報というものを同列にとらえますが、この見解は正しいと言えます。

人間は、感覚器官と『脳』で、それらの構造を受信しそして翻訳して『情報』というものを取り出しています。

仏教哲学の『唯識』世界や現実というものは『唯(ただ)、識(認識)によって成り立っている』という見解、そこで語られるのが『八種の識』です。

眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識(五感+心)。

そして『末那識(まなしき)』(自己中心性:エゴ)『阿頼耶識(あらやしき)』(記憶の貯蔵庫)これらの『識』は、深くなるほどより深くより大きな『情報』にアクセスできるという意味にもなります。

動物や植物といった他の生命体も『情報』を受信することはできますが『翻訳機能』という点では人間に及ばないということでしょう。

脳内のシナプスとは『個人の記憶』DNA内の塩基配列は『生命の記憶』この世の縁起という成り立ちは『世界の記憶』『カルマ』とは厳密には、これらすべてを指すものと言えます。

ですが、普通は『個人の記憶』という意味だけでとらえてしまってもOKだと思います。

『生命の記憶』『宇宙の記憶』を人間が簡単にアクセス・コントロールできてしまうというのは、現時点では大半が『オカルト』の部類に入ってしまうものだからです。

個人の記憶は、他人の記憶の中に生き続けて、失われることはない


そして『人は、どこからきてどこへいくのか』ということですが、縁起によって、流転・変化し続ける世界の中、両親から『身体』の一部を借りて人間としての肉体が物質的に創られると、『情報』が受信できるようになって『意識』が生まれます。

『脳』という器官の成長にともなって、情報の『翻訳』の精度が上がり、やがて『自我意識』に育ち、その『自我』を通して人は人生を経験します。

肉体の寿命が終わるとき『脳』という器官の機能も停止するため、『個人の記憶』は失われます。

ですが『生命の記憶』『宇宙の記憶』は、決して失われることはないと言えます。

さらに、これらの『記憶』は、お互いに関わりあう『情報』です。

『情報』とは『つながり』『縁』そのものだからです。

『個人の記憶』は、人生で接してきたすべての人々と共有されるものです。

人生に起こるすべての『経験』を、人間の脳はシナプスの構造で記憶します。

ミラーニューロンの働きで直接に縁をもった人は、その人の『個人的な記憶』の中に生き続けます。

つまり、脳の死によって『個人の記憶』は消えてしまうように観えて、実際には他人の『個人の記憶』そして『宇宙の記憶』の中に生き続けて、決して失われることはないということです。

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