こんにちは、さこっしーです。
スピリチュアルにハマる人、一昔前で言えば、怪しげな新興宗教、カルト宗教にハマる人は、『悟り』ではなく『解脱』を求める傾向があるように感じたりもします。
僕の中の言葉の定義では、『悟り』とは自分の本質を知ること『解脱』とは、自我からの完全な解放という感じです。
そして、人間として生きる上で、『解脱』を目的にしてしまうと、極端な空観思想にハマってしまうように思います。
『解脱』とは人間をやめることであり、人生の中でそれを達成するとしたら、『死』というものにしかなりえないのです。
アセンションという言葉にも、少し危険な響きを感じます。
キリスト教や浄土真宗における『救い』が誤解されているのと同じ構造があります。
この世界に生きる誰にとっても、自分を救うのは自分でしかありません。
何か世界に特別なことが起こって、自動的に意識レベルが上がるというのは、ファンタジーやオカルトの世界です。
意識レベルの進化や『救い』というものは、自分の行いによって自分の潜在意識にまかれた『種』があってこそ起こるものです。
世界の中に意識レベルの高くなった人、『悟り』に到達した人が増えれば、相乗効果的に同じレベル、同じステージに到達できる人はどんどん増えていく、ということは言えますが、自らの行いを省みない人、種をまかない人にまで何かが起こる、という話ではありません。
希望を持つのはいいことですが、それが他人に対する押しつけになったり、盲信になるのは話が違います。
『悟り』というもののとらえ方も、人によって解釈はいろいろです。
俗世間と距離を置き、内にこもるのは、『自分だけが救われたい』というエゴが現実化した姿ですし、アセンションや『解脱』を神格化し、それを最高の価値として他人にも押しつけるような空気にも違和感を感じます。
本当に人類全体の意識の進化を望むのなら、スピリチュアルというものに抵抗がある人にも通じる言葉で、理性を通して理解してもらえるようにはたらきかけることもできるはずです。
スピリチュアルでお決まりの、『みんな救われてるから大丈夫』という言葉も、使う人によってニュアンスが変わります。
奉仕や貢献というものを『自己犠牲』と見てしまう人もいます。
人のために何かをすること、与えることは、自己犠牲ではなく『喜び』なのです。
自然界の動物たちも『自分勝手』に生きているわけではなく、お互いに支え合います。
それが『調和』です。
精神世界に埋没するのは、エゴの世界に埋没するのと同じことです。
ワンネスを本当に理解していれば、内も外も区別はないので、自分だけの世界に埋没する必要はありません。
瞑想というのも、自己を見つめる行為ではなく、体感を通して、世界とつながる行為となります。
誤解を恐れず言えば、人生の苦しみから逃れるためだけに瞑想し続ける人よりも、スピリチュアルな知識などがなくても、自分にできることを考えて、目の前の人や現実に対して誠実に向き合って、親切を実行する人の方が、よほど意識の進化に近いところにいる、と思います。
だから僕は、スピリチュアルを求める人こそ、真剣にビジネスというものを学ぶべきだと思うのです。
他人との関わりなしに『愛』も『調和』も表現できません。
他人のことを考えられるような余裕はない、と思って何も行動しない人が、愛や調和を理解できるわけがないのです。
すべての理解は、実践と経験を通して得られるものです。
苦しんでいる人ほど、他人への奉仕や貢献を実践し、そこから喜びを見出だすことを経験すべきなのです。
家族やパートナーなど、自我の枠組みの中で優先度の高い人たちに向けられる『愛』は、エゴの形を変えたものでしかありません。
それは、一種の『執着』です。
あらゆる愛の根底にあるのは、キリスト教で言うところの、『兄弟愛』『隣人愛』というものです。
これは抽象度を上げれば、人間だけに対するものでもありません。
スピリチュアルといっても現実的なものの見方から離れると、それは宗教的な盲信となにも変わりません。
『真理』などといった、偉そうな言葉を使うのが良くないのかもしれませんね。
人と人がお互いを支え合って幸せに生きることこそが尊いのであって、その中の個人がどういう精神レベルに達するのか、それ自体に価値があるわけではないのです。
僕は、ワンネス体験や深い瞑想状態を神格化する必要はまったくないと思っています。
その体験を共有できない人にとっては、何の価値もないことです。
いくらそれが個人的に素晴らしい至福の体験であっても、分離された『個』の脳内で起こるドラッグによる幻覚体験でしかないのです。
スピリチュアルの意義は、意識レベルの進化によって、『個』の壁が取り払われた人たちによって、現実的な価値が世の中にシェアされていくことです。
スピリチュアルは、現実的に幸せを追求するためのツールの一つに過ぎないという認識が必要です。
なんにしてもですが、本質を見失ってはならないと思います。
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