自分の感情に、理由があるのか理由がないのかを考えてみよう

これからの『感情』の話をしよう生き方・考え方
さこっしー
さこっしー

こんにちは、さこっしーです。




今回は『感情』のお話になります。

『感情』というものは、本来の『真我からのシグナル』である一次的な感情と、それを自我の思考が加工する、二次的なものに分けられます。

『真我』からの直接シグナルである感情は『快』『不快』の二種類です。

『快』は動機(許容)となり『不快』は抵抗となります。

動機とは、思考や行動を生み出す源ですが、これは真我の意志(流れ)を『許容』することだと言えます。

ゼロから自発的に何かを始めるのではなく『許容』することによって、自然の流れに身を任せるので、それに沿って思考や行動が生まれるということです。

これも『真我:現実』が主体で、自我が揺れ動く不確かなものという視点を持てば正しく理解できますね。

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感情に、理由があるのか理由がないのかを考えてみよう


『快』の感情が思考につながったものが『ひらめき』『直感』『気づき』と表現できるもので、よりエネルギーを持ち、行動につながるもののことを『衝動』と表現できます。

心の底から湧き上がる『快』『不快』以外の感情は、すべて自我の思考による『二次創作物』と言えます。

自我レベルの願望や欲求、喜怒哀楽といったものも、すべて、一次的な感情である『快』『不快』を受けて、過去の記憶に支配された思考が加工した、二次的な感情なのです。

何かの出来事、人の行動を受けて怒ったり悲しんだりするのは『不快』を思考が加工した結果、喜んだり楽しんだりというのも、思考が『快』を加工したものと言えます。

たとえば、『怒り』の背景には何かへの『不安』『恐れ』があり、さらにそれの元をただせば、真我から来る『不快』にたどり着きます。

一次感情と二次感情の区別は、その感情に『理由がある』のか『理由がない』のかでわかります。

自我の思考による二次創作物には、必ず何かの『理由』があるのです。

『理由』を創るのは自我のしわざなので、本来の真我からのシグナルである一次感情には、『理由』なんて存在しないのです。

考えてみたら、自我のない赤ちゃんの感情は、まさにこの二種類に集約されますね。

シンプルに『快』⇒笑う、『不快』⇒泣くだけです。

引き寄せの法則にも絡めると『自我レベルの願望』にはすべて『理由』があるということに気づきます。




  • お金がほしい
  • 愛がほしい
  • 満たされたい
  • 豊かになりたい



どれも、いま自分が感じている『不快』から発する願望です。

『欠落』にフォーカスした願望ですね。

これに対して『真我の望み』は、理由のない『快』という動機に基づいたものということです。

なので『衝動』と、思考の産物である『欲求』との区別は、『理由』があるかないか?でわかるということです。

もう一ついうと、ネガティブな衝動というのは、ここで僕が定義している『衝動』とは種類の違うものです。

ネガティブにとらわれる時は、あえてポジティブを見てみよう


ネガティブな思考や行動というものは、真我からの『不快』のシグナルを自我の思考が勝手に加工して、無理やり動機につなげたものです。

『不快』を避けるために、こうすれば楽になれるんじゃないか?と勝手な解釈をつけて、それを動機にするということです。

『不快』のシグナルを受けたときは、自我の思考であれこれと考えても解決にはつながりません。

『視点』を変えて感覚を研ぎ澄まし『快』のシグナルを拾うことに集中するのです。

思考を使うとすれば、『視点』を切り替えるための質問を自分自身にするのがいいでしょう。

たとえば『いま、自分が与えられるものはなんだろう?』という質問は、なかなかに効果的だと思います。

その根拠はこの後に述べます。

一次感情は、『自我:思考』を超えたところからやってくるため『言葉』にはしにくいものです。

『言葉』は具体性が高すぎるので、抽象度の高い一次感情を収めるのは難しいということです。

なので、思考を飛び越して『行動』につながりやすいという特徴があります。

これが『衝動』です。

真我の『快』というシグナルを動機にした衝動は『与える』という形をとります。

真我の流れに身を任せるので、自然の摂理に沿った形になるのです。

『与える』対象は他者であったり、自分自身ということもあります。

エーリッヒ・フロム著の『愛するということ』では『愛とは与えること』だと語られています。

『与えること』は、あなたの生きる力のもっとも高度な表現なのです。

『与える』という行為を通じて、あなたが生命力にあふれ、惜しみなく消費し、いきいきとしているのを実感し、それゆえに喜びをおぼえるのです。

与えることはもらうことよりも喜ばしいことです。

『与える』という行為があなたの『生命力の表現』だからです。

『与える』という行為によって、あなたの喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなど、あなたの中にあるものの、あらゆる表現を与えるのです。

このように、自分の生命を与えることによって、人は他人を豊かにできます。

あなた自身の生命感を高めることによって、他人の生命感を高められるのです。

『無償の愛』というのは、まさにこれの代表的なものですね。

こういう『衝動』は、動物なら何でも持っている『本能』とは異なるものです。

人間だからこそ持つもの、人間が本来持つ『善性』とも表現できます。

理由も見返りもなく何かをしてあげたい、与えたいというのが『愛』『慈悲』です。

理由も見返りもなく人を攻撃したい人なんて、この世には存在しないのです。

何かを攻撃したり奪おうとする背景には、必ず自我が創りだすなんらかの『理由』があります。

人が人を傷つけたり戦争が起こるのも、すべては『理由』があるのです。

自我を持たない動物は『食べるため』以外の理由で、たとえば『攻撃したい』とか『壊したい』という欲求で他の動物を殺したりはしません。

人類の歴史、文明の歴史というものは『自我の歴史』でもあるため、戦争や、血なまぐさい出来事の連続と言えます。

ただ、その評価『解釈』も自我によるものです。

『観念』のフィルターを外せば、人間も自然の一部であり、それ以上にもそれ以下にもなり得ないのです。

人生は、自分の人生を生きること


僕個人は、人間の本分は善性であるということは間違いないと思っています。

『善性』という言葉、表現も自我の貼ったラベルに過ぎないのですが、ここでは置いておきましょう。

昔の人は『善い行いをしたとき、心が温かくなるのは神がいる証拠だ』と考えたようですが、その解釈は正しいと思っています。

『善行』と表現できるような行動は、真我からの『快』のシグナルに基づいたものであり、人間が、そのシグナルを『快』と受け取ること自体が『生命の本質』『自然の摂理』に沿うことなんだと思います。

つまり『衝動』とは人間の善性、自然の摂理に結びつくものであって、あなたが生命力の表現として『与える』こと、それは『調和』『愛』『豊穣』『拡大』『成長』という言葉で表現できるものなのです。

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