こんにちは、さこっしーです。
今回は、教育に関するお話をいていこうと思います。
この日本という国では『教育観』『教育の目的』という根本の部分が曖昧なまま、ただ制度としての教育課程が出来上がっているように思います。
『スモール イズ ビューティフル』(E・F・シューマッハー)で述べられていますが、教育の第一義的な目的とは『価値観』つまり『人生をいかに生きるべきか』という観念を伝えることです。
数学や理科、社会といった教科内容というのはノウハウに過ぎず、これらはあくまで二義的なものです。
『科学』や『歴史』『政治』や『経済』といったものの内容を学ぶ前に、それらを『どのように使うべきか』『どのように役立てるべきか』を学ぶ必要があるということです。
現代日本の教育において最も欠けている、ないがしろにされている部分と言えるのではないでしょうか?
ノウハウではなく、価値観や人間性の教育が重要
『価値観』は、人間の精神の一部であり、思考や感情に常についてまわるものです。
『価値観』を育てることが『人間性』を育てること、一人の人間を育てることにつながると言えると思います。
世界や世の中のことをいかに体験し解釈するかは『観念』に左右されるのです。
『観念』が貧しいと、他人の示す大げさな観念に簡単に精神の空白を埋められてしまいます。
他人の価値観で生きるということです。
これまでこのブログで使ってきた言葉を繰り返せば『信念のレンズ』を育てることが、教育というものの第一の目的になってくるということです。
『教育』とは、世の中の意味を明らかにし、人生の意義を納得させてくれる観念・思想のことです。
何事であっても『意味』が納得できれば、人は参加意識を持ち、主体的に生きることができるのです。
こういった『価値観』の教育というものは、日本では『親』の担うべき役割・責任という社会通念が蔓延しています。
『自由』というものが『責任』を伴わず、間違った解釈をされて広まっているからです。
どのような『価値観』を持つかは個人の『自由』だから、そこには、たとえ教育機関であっても他人が口を出すべきじゃないという具合です。
ですが、個人の『価値観』は、その人を含むコミュニティのモラルや充実度に大きな影響を与えます。
人として大事なことを自覚した上で、教育をしていこう
どういう『価値観』を選ぶかは『自由』ですが、コミュニティの一員である以上、コミュニティ全体の利益を考えた上で『価値観』を選択する『責任』があるということです。
他の民主主義国家では、両親だけでなくコミュニティ全体で、そのコミュニティを益するような人間に子どもを育てようという意識がもっとしっかりと浸透しているように思います。
例えば、ニュージーランドでは、学校の経営やガバナンスに保護者が参加するそうです。
日本のPTAのように、時間を拘束されて雑用を任されるわけではなく、しかるべく権限(校長の人事権など)を与えられ、参加者も本業の片手間という意識ではなく、自分たちで自分たちのコミュニティを良くしていこうという当事者意識をしっかり持って主体的に取り組むそうです。
つい先日も、友人と話していたことですが、日本という国は民主国家に見えて、社会主義思想が根本の部分に混入しています。
『責任』よりも『公平』が重視され『責任』がないがしろにされたまま『自由』だけが与えられ、国民がその状態に慣れきってしまっているという印象を受けます。
なかなかに難しい問題だと思いますね。
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