人生を生きていく上で、意味も理由も原因も求める必要はない

意味も理由も原因もなくていい生き方・考え方
さこっしー
さこっしー

こんにちは、さこっしーです。

以前書いたブログ記事へのコメント欄で興味深い話題の展開があったので、シェアしようと思います。




頂いたコメントは『例えば、戦地に生まれてくる子供とか、物事をただ受け入れるだけの状況の赤ちゃんとかそういう人はどう説明するのか?


何故にそういうところに生まれてきて、殺されたり酷い目にあうのか。みたいな。


酷い目に遭って殺されたりするのは、その子供の意識がそうさせているのか?そういうのはどう説明するのか?』


という質問をされたとき、どう説明すればいいのか?というものです。


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生きていく上で、意味も理由も原因も求める必要はない


これも、考え方の枠組みを大きく変えるべきテーマだと思います。

まず、『自分の目を通した他人の経験する世界』というものが、主観という解釈で創られているものに過ぎないという『前提』の理解が必要です。

そして『起こることはただ起こっているだけ』という『前提』もあります。

そこに、主観によって解釈をつけてストーリーを生み出すのは、人間の自我です。

たとえば、生まれたばかりでちょっとしたアクシデントのため、後ろ足を一本失ってしまった野生の鹿がいるとします。

人間は成長したその鹿を見て、幼い頃からハンデを背負いつつ力強く生き抜いて、立派に成長したという感情移入できるストーリーを創り上げます。

ですが、当の鹿にとっては、足が一本ないということをハンデだと認識したことは一度もありません。

ただ、自然の摂理に従い『いまここ』という生命の場を、ただただ無我夢中に生きてきただけのことです。

人間の意識は『足がない』という過去の結果に執着し、それを材料にして現在や未来のことを創造するという枠組みの中でものごとを考えます。

鹿にとっては『足がない』という『いま』の状態は、なんの意味も理由もなく、ただ受け容れる(調和する)だけの事実であって、そこから創造する『現実』『未来』に対して、なんの影響を及ぼすものでもないのです。

人間の進化した『自我意識』だけが『過去の記憶』という情報の貯蔵庫に自由にアクセスすることができ、それゆえに過去にとらわれてしまうのです。

これが『執着』というものです。


意味や理由、原因を求めるのは、人の自我意識だけ


『執着』が起こるから、人間は常に重荷を背負って人生を歩んでいるかのように錯覚してしまうのです。

すべては『起こることが起こっている』だけで、戦地に生まれた赤ちゃんと、幸福な家庭に生まれた赤ちゃんを区別しているのは『人間の意識』だけなのです。

自然の中、たとえば魚なんて何千万という数の卵を産んで、それが孵化して成長する過程でほとんどが死んでいってしまうのです。

それも幼い命が失われることに変わりはないわけです。

そうやって、成長した命を漁船が集めてきて、それを毎日の食卓に乗せているのです。

といっても、ここで人間はなんて酷いんだという自己卑下は無用です。

そういうことを言うために、こういう例を挙げているわけではないのです。

こういう『たとえ』を持ち出すと、冷たい、無機的だ、達観しすぎてるというイメージを持たれてしまうかもしれません。

ですが、これらのことも含めて、すべてが『自然の営み』その調和の中で起こっていることなのです。

自然の営みの中で起こること、流転するこの世界で起こる現象は、すべて、複雑に絡まりあった関係性によって起こっています。

そこに単純な『意味』『理由』『原因』というものを求めるのは、人の『自我意識』だけです。

『自我』が無自覚なまま、盲目的に現実を認識していれば、この世界は、運命や神の気まぐれに左右されるちっぽけな存在である人間にとっては、非常に住みづらい場所だと言えるでしょう。

ですが、『意識の目覚め』を経験し、自分の目に見えない思考や選択を、自分自身で気づいて(自覚して)行えるようになったとき、ものごとや出来事、現象を『引き寄せる』と表現できるような
生き方が実現できるということなのです。


人生の中で、どこに意識を向けるのかを自覚しよう


なかなかに意見のそろいにくいデリケートなテーマだと思いますが、大切なのは、悲劇的な側面に意識を向けて、その中に囚われ、悲劇の世界の住人になることを選ぶのか、それとも、自分はそういう世界を脱し、観たいものを観るという生き方を選んでいくのかという『選択』だと思います。

見ないふりをするのは無責任だと考えてしまうのは、マインドというものを過信しているとも言えます。

自分の認識する現実の中に、不幸な人を創り出し、そういう人たちを引っ張りあげよう、助けてあげようと考えるのは、マインドがすべての問題を解決できるという過信の現れです。

そのマインドへの過信こそが、世界に悲劇を生み出し、それを育てる苗床となるのです。

世界から悲劇をなくしたり世界を変えるのは、マインドの力で他人や現実の在り方を変えようという驕りに満ちたやり方ではなく、一人ひとりの『意識の進化』なのです。

これまでの歴史を振り返ってみましょう。

世界に大きな変化の流れが起こったのは、決まって人の価値観、つまり心の中に大きな変化が起こったときです。

ブッダもイエスも、ガンジーもマザー・テレサも、リンカーンも、キング牧師も、彼らはまず自分の心の中に、そして自分の認識する現実に変化を起こしたのです。

そして、今の世の中は、インターネットによってその『変化』が恐ろしく伝わりやすくなっています。

チュニジアの革命も、エジプトの革命も、一人の偉大な英雄によってではなく、無数の民衆の心の中に起こった『変化』が成し遂げたものです。

自分の心、意識の中で起こる変化が、どれほど大きな可能性を秘めたものなのか、それを自分自身で制限してしまう必要はないということですね。

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