真理に至る道は、人それぞれの人生の中に存在している

真理に至る道は一つではない生き方・考え方
さこっしー
さこっしー

こんにちは、さこっしーです。



上記の記事にも書きましたが『目覚め』『真理』に到る道というのは一つではありません。

これは、宗教というものの陥りがちな罠の一つだと思っています。

特定の何かの宗教だけがそこに到る道ではなく、ある者は学問ある者はスポーツ、そして芸能や芸術、ビジネスや政治というものを通じて、人々と向き合うことを学び、そこへ到達する者も、なかにはいるでしょう。

何気ない日常の生活を送りながら、そこへ到達する者もいるのです。

ある意味、人間の左脳によって作り上げられた知識体系を使うことで、この世の理(ことわり)を追求しようという、現代の宗教哲学、学問、現代科学というものは、険しい道なのかもしれません。


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真理に至る道は、人それぞれの人生の中にある


宗教というものについて、考察してみましょう。

キリスト教やその母体となったユダヤ教には『メシア思想』があります。

『メシア(救世主)が現れて、世界を救う』というものです。

ここでいう『世界』とは、一般的に考えられている世界ではなく『認識によって構築される世界』つまり、一人の人間が生きる『現実』という意味での『世界』です。

『教育』に価値を置くユダヤ人の間では、この思想の本質が、比較的誤解の少ない状態で伝承されてきたように見えますが、ユダヤの厳しい戒律への反発から生まれ、民衆の救いのために教えの門口を広げたキリスト教では、この思想の『世界観』への誤解が権力者たちに利用され、統治の道具
とされてしまった観があります。

仏教の方も、そもそもの釈迦の教えとは、自分の内面にフォーカスを向けるというものでしたが、日本に伝来した仏教は、これもまた統治の道具にされてしまった観があります。

『救い』の対象を『自我と、それと切り離された世界』と観るか『認識によって構築される世界としての自己』と観るかで、宗教の教えのとらえ方はまったく変わってくるのです。

そもそも、イエス・キリストにしても、釈迦にしても、聖人というより『破壊者』だったのです。

苫米地英人氏の著書で『釈迦の教えはハードコア』という記述がありましたが、僕もこれには同感ですね。

当時の権力者・権威によって作られた『常識』というものを、否定するところから始まっているのです。

釈迦は、当時の常識であったバラモン教、カースト制度といったものを否定し、イエス・キリストも、ユダヤ教のパリサイ派という、戒律厳守で融通のきかない人たちを否定しています。

本質を知っていたからこそ、表面や枝葉にとらわれる人たちを否定したのです。

現代でも、多くの人は、ものごとの表面を見て、おとぎ話に酔いしれる傾向があります。

キリスト教で云う『天国』『地獄』とは、死後の世界というおとぎの国にあるのではなく、あなたの『心の在り方』によって、実際に生きる『あなたの現実』のことを言っています。

『楽観主義者はすぐれた智恵と洞察によって自分自身の天国をつくり、自分の天国をつくれる者は他の人たちの天国をつくる手助けができる。悲観主義者は限られた世界観のために自分自身の地獄をつくり、自分の地獄をつくる者はひいては人類全体の地獄をつくるのに手を貸すのだ。』


ヘンリー・フォードが『自分の成功はこの本のおかげだ』と評した、ラルフ・ウォルドー・トラインの邦題『人生の扉をひらく「万能の鍵」からの一節です。

この本は、思いつきで購入したものですが、前書きを読んだ段階でかなりのインスピレーションを
感じてしまいました。

仏教の『六道輪廻』にしても同じです。

六つに細分化されてはいますが『生まれ変わり』というおとぎ話ではなく、これも『心の在り方』で変わる『あなたの生きる現実』の話をしているのです。

神も仏も、天使も悪魔も、救世主も、阿弥陀如来も、外からやってくるのではなく、全部あなたの中であなたが生み出す『幻想』なのです。


人には、それぞれの解釈が存在しているだけ


そもそも『外』なんて存在しないということに、気づくべきです。

あなたが『外』と呼ぶものは、あなたが心の中に生み出した『壁』の向こうにあると錯覚していますが、その『壁』自体が錯覚です。

おとぎ話を信じる者は、自我が憧れる『完全性』を求めて、偶像を生み出しそれを崇拝するのです。

自我というものは、そもそも『多様性』を経験するために『完全性』から自らを切り離して生まれたものです。

『多様性』つまり他者と比べての差異です。

あなたはこれに『優れている』『劣っている』というレッテルを貼っていますが、優劣は『解釈』に過ぎません。

『完全性』の中では『創造』する必要はなく、したがって『創造』の楽しみというものもありません。

自我という『多様性』を切り離したのは『創造』を楽しむためであって『完全性』を失ったことを
惜しむため
ではないのです。

つまり、人生の意味とは『多様性』を経験するために与えられた『自我』をもって、自分自身の人生を自由に創造することを楽しむということです。

これは聖書的な表現になりますが、同じことを仏教的に表現すれば、縁によって起こる現象世界の中で自分の役割を果たすという言い方もできるでしょう。

どの宗教でも、独自の戒律・ルールという『束縛』があります。

『本質を知る人』はそれらのルール自体には意味がないと知りながら『あえて束縛を選ぶ自由』を行使するのです。

ユダヤ教は多くの成功者を輩出しますが、徹底的な偶像崇拝の禁止、クリティカルシンキング(批判的思考、つまり思考の枠を外して考えること)の推奨、現世・現実主義というところにその理由がありそうです。

ちなみに、ユダヤ教では創造主である神に名前がありません。

その存在を言葉にし、口に出したり、文字に書き出すことを禁じているのです。

イメージに『言葉』という記号を充てることによって、情報がそぎ落とされてしまうことを避けているのです。

結局は、自分の自我が心地よく思うルール、束縛なら何でもいいということです。

本質を知る者は、表面や枝葉にはこだわらないのです。

師を求める人は、その師が道を制限する人ではないか?おとぎ話を語る人ではないか?ということをしっかり見極める必要がありますね。

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