悟りの境地へと至るプロセスとメカニズムについてご紹介

悟りの境地へと至るプロセスとメカニズムについてご紹介生き方・考え方
さこっしー
さこっしー

こんにちは、さこっしーです。

今回は『覚醒のプロセス』というものについて、お話しようと思います。

ただし、最初に断っておきますが、これは、僕自身の個人的体験をまとめたものであって、あくまで『一例』として参考にして頂けたらと思います。

人にはそれぞれの『目覚め方』があって『道は一つしかない』という誤解は『目覚め』を難しいものにしてしまうと考えています。

まず、この記事を興味を持って読んでいる方は『入り口に立っている人』だと言えます。

『目覚めたい』という欲求が生まれることは、『覚醒』というものにフォーカスを向けることであり、フォーカスを向けると同時に『創造』は起こります。

『現象の必然』という観点で考えると『覚醒』を体験しない人の人生には、そもそも『覚醒したい』なんて欲求は現れるはずがないのです。

何かの欲求が生まれると同時に、それが満たされる未来は、可能性の一つとして確実に現実化するのです。

欲求がすべて叶う(現実化する)わけではないのも確かですが、それは、現実化する前に自分自身でその欲求を消してしまう、もしくは、他のもっと大きな欲求を生み出してしまうからです。

僕自身も、カルマの燃焼に苦しんでいる最中、それまで考えたこともなかったのに、まず『悟りたい』という欲求が生まれたあとに『自我を失くしてしまいたい』という欲求が生まれました。

そして『目覚め』『悟り』がどういうものかはわからないままに、自分はそこに到達するのだろうという根拠のない確信めいたものがありました。

欲求というものは、必然性がなければ生まれないということを知っていたからです。

もう一つ、僕自身が感じていたこととしては、エイブラハム・ヒックスの『引き寄せの法則』を初めとして、ディーパック・チョプラ『迷ったときは運命を信じなさい』ラルフ・ウォルドー・トライン『人生の扉を開く万能の鍵』ディヴィッド・ホーキンズ『パワーか、フォースか』ナポレオン・ヒル『思考は現実化する』、そして『新約聖書』など当時、読み漁っていた本の数々ですが、どの書籍をとってみても、この世界の『真理』が語られているものばかりです。

こうした書籍から学び、自分は『真理』に近づいているという確かな実感と同時に、自分自身の状況の悪化、苦悩の増大という相反する現象を経験していたのです。

そのことに気づいたとき、自分がたどり着こうとしているのが『高み』であるという確信が芽生えたのです。

得るものが大きいからこそ、そのために支払う対価も大きいのです。

障害・受難・苦悩が大きいということは、自分が得るものの大きさを証明しているのです。

まず『覚醒』というものに興味があって、これが、自分が人生の中で求めてきた答えだと感じている人は、そう思えた時点で、自分は必ず『目覚め』の実感を持つのだと考えてみてください。

それを『当たり前に思う』ことを自分自身に許すのです。

自分が自分に許可を与えた欲求は実現し、許可を与えず、抵抗した欲求は実現しないのです。

これは、自然の摂理、この宇宙のルールです。

『目覚め』ではなく『実感』というところもポイントです。

誰もが『目覚め』ているのに、その『実感』を持てていないだけなのです。

ここまでのことは『心構え』として知っておくべき知識です。


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悟りの境地へと至るプロセスとメカニズム


知識は必ずしも必要ではありませんが、あった方がものごとはスムーズに進みます。

ただ『こうあるべき』というような、硬直した知識、制限を作るような知識は無用です。

『知識』というのもまた、自分を縛るためにあるものではなく、自分を解放するためのものだと自覚しておいてください。

そしてここからは『覚醒』のための実践的な準備についてご紹介します。

『目覚め』は起こすことではなく起こることなので、自分自身の意志でトリガー(引き金)を引くことはできません。

『準備が整っている人』に、自然のルールに従って『起こる』ことなのです。

まずは、日常生活の中で自分が『目覚めている瞬間』のことを自覚するという訓練です。

『覚醒』しているというのは『現実をあるがままに認識している』ということです。

言い換えると、『無我の体験』『意識の主導権が潜在意識に移る』ということです。

これは、下記の記事でもご紹介しました。






動物や赤子のようにものごとをとらえてみる、自分の生命活動など当たり前の奇跡を実感する、自分自身の感情と一体化する、瞑想する、心から好きなことに没頭するといったことを、日常の習慣にとり入れてみましょう。

定着するまではしっかり意識して、習慣となり自分の一部となるまで繰り返していきましょう。

どういうものか理解できなくても、そこに意識を向け、絶えずフォーカスし続けていくだけでOKです。

フォーカスというのは、向けるだけでそこに現実化のエネルギーを与えます。

『どのように』ではなく『なに』に向けるというのがポイントです。

『どのように』にフォーカスを向けると、手段(プロセス)にエネルギーを与え、『なに』にフォーカスを向ければ、結果(実現)にエネルギーを与えます。

そして、もう一つは、思考の枠を外す、思考を自由に乗りこなすという訓練です。

自分でも知らないうちに縛られている、常識・観念から解放され、自分の思考を自由にするという訓練です。

これは、強く意識しないとできません。

今までの人生で刷り込まれた洗脳を、自分の意志で解いていくという感覚で臨む必要があります。

たとえば、あなたが『誰にも理解されずに死んでいく人生なんて価値がない』と思っているのなら『本当にそうなのか?』と批判的な視点で考えてみたり、自分の信念・価値観の外に出てみること、極端なことをあえて考えてみること

たとえば、余命3ヶ月と宣告されたら自分はどうするのか?

ということを本気で考えてみたり、自分の中のタブーを冒すことを考えてみるということです。

こういうことは『自覚』した上で訓練していかないと、なかなか難しいです。

ですが、習慣のメカニズムに基づいて、訓練すれば必ず慣れます。

僕自身のことで言えば、カルマの燃焼が始まる数ヶ月前の時点で、生と死という思考の枠は外れ『自分自身の死』への恐怖・不安というものはなくなっていました。

ですが、これも人によると思います。

僕にとっては『生』への執着は、自分の中で最も大きなものではなかったということなんでしょうね。

その代わりに、『自我』への執着は相当に大きかったです。

思考の枠を自由に外したりつけたり出来るということは、自分の視点『抽象度』を自由に切り替えられるようになるということです。

抽象度のコントロールは、インスピレーションを受け取るために受信感度を上げることに当たります。

自分の枠の外(受信可能領域外)の信号は拾うことができないということですね。

書きながら気づきましたが、右脳系の人はもともと左脳に対して優位なので、左脳の生み出す思考に、あまり邪魔されずに受信できるということなんですかね。

僕の場合は、左脳を制御して受信感度を上げてるという感じですね。


早いのは、師匠を見つけて指導してもらうこと


そして、最後の一つは、感情のコントロールの訓練です。

これに関しては、下記の記事を参考にしてみてください。


長々と書いてきましたが、まとめると『覚醒』のための準備としては、無我を知り、日常的に実感をもつ、思考の枠を外す(抽象度のコントロール)、感情をコントロールする(心の感度を上げる)といったスキルを磨くということです。

こうしてみると、自己啓発に長けた優秀なビジネスマンや、優れたスポーツ選手、宗教家、その他『人格に優れた』と表現される人たち、世にいう『成功者』と呼ばれる人たちが『準備の整った人』にカテゴライズされるのが、よくわかると思います。

ただ、自分ひとりで『覚醒』の準備を整えるのって結構大変です。

手っ取り早いのは、師匠を見つけてしっかり指導してもらうことです。

昔ながらの『悟り』のための修行も、師についてみっちりと習慣の書き換えを行っていくわけですからね。

まあでも、道理に基づいたことを行っていけば、誰でもたどり着けることという認識だけは強く持って頂けたらと思います。

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