自我を離れた無我の視点を得るために必要なこととは?

あなたは無我を知っている 自我を離れた無我の視点とは?生き方・考え方
さこっしー
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こんにちは、さこっしーです。

下記の記事からの続きで、今回は『無我』というものについて、できるだけわかりやすく、お話してみようと思います。





『覚醒』『目覚め』に関する参考記事






以前の記事で『覚醒』『目覚め』とはどこかにたどり着くことではなく、すでにある当たり前に気づくことだと語りました。

『覚醒』とは『現実をあるがままに認識すること』であり、言葉を変えていくと、自我が幻想だと知ること、無我を知ること、真我・大いなる自己(セルフ:全体性としての自分)に気づくこと、Oワンネスを体験することなど、いろいろな表現がありますが、これは言葉は違えど背景的には同じことを表しています。

『悟り』『覚醒』を求める人は、自我がすべての苦しみを生み出す根源だと知り、だから、その自我を無くしてしまい、いろいろな苦しみから解放されたいということが動機になります。

ですが『無我』というものは、そうした『自分がまだ覚醒していない』と考える人であっても、日常的に体験していることなのです。

それは『目覚め』や『気づき』であって『探求』や『創造』ではないのです。

『すでに在るものに気づく』ということです。

ただ、わかっている人、気づいた人ならともかく、まだ気づいていない人にとっては、小難しい禅問答や、煙に巻かれたような印象を受けてしまうことも確かです。


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自我を離れた無我の視点とは?


『無我』とは、いったいどういう境地なのか?

そのヒントは『無我夢中』という言葉にあります。

実践心理学であるNLP(神経言語プログラミング)に『焦点化の原則』というものがあります。

脳(自我)というものは、同時に二役をこなすことはできないという原則です。

たとえば、あなたが、何か考えごとをしながら街を歩いているところを思い浮かべてみましょう。

意識しないと気づかないことですが、動物の中でも人間やそれに準ずる高等動物にしかできない『二足歩行』というものは、実は、動物の行動としては非常に高度なものです。

世界のトップ技術を誇るような企業が何年も研究開発を続けて、未だ二足歩行のロボットがしっかり実用化に至っていないことからもわかります。

どういうタイミングで足を出すのか、上手くバランスを取るための重心の移動、どういうバランスで力をかけるのか、頭脳に求められる情報処理のレベルで言えば、たとえば、東大に合格するのに
必要な勉強など、比較にならないような高度な情報処理が行われています。

あなたは、自分が歩く時にそういう高度な情報処理を行っていることを自覚し、意識していますか?

その『奇跡』に気づいていますか?

このような、日常的に行う『無意識』による行動『習慣づけられた行動』さらに言えば、あなたといういのちをこの世界に存続させている『生命活動』これらの行動の主体はまぎれもなく『無我』なのです。

以前の記事で『純粋ないのちを疑似体験する』とお話しましたが、疑似体験するまでもなく、あなたは日常的に『無我』を体験しているのです。

蟻が巣穴へ帰ろうと歩き回ること、魚が水の中を泳ぎ回ること、鳥が大空を飛ぶこと、赤ん坊が声を上げて泣くこと。

それらの行動との間に違いはありません。

これが日常的に体験している『無我』の正体です。

もしあなたが『無我』というものについて詳しく知りたくて、そのことを意識しながら歩いてみたとしましょう。

その瞬間に、その『歩く』という行動の主体は『無我』から『自我』に切り替わります。

『無我』を知ろうとすればするほど、逆に『無我』から遠ざかることになるのです。


『視点』替えるだけで、自我は自然に調うようになる


もう一つ例をあげてみましょう。

あなたが自分の『感情』を、思いっきり味わっている場面を思い浮かべてください。

本当に心の底から大笑いするとき、あなたの自我は『笑い』そのものになります。

そこに余計なものは、一切なくなるのです。

悲しみ、そのものを体験するとき、自我はその感情と同化します。

苦しみであっても同じです。

わかりますか?

もし、悩みや苦しみを抱えたとき、その感情と同化することを恐れて抵抗すると、自我には感情以外のことを体験する『すき間』ができます。

その『すき間』で余計なことを考え始め、悩みや苦しみをふくらませるような思考を次々と生み出していきます。

あなたは、その思考がもたらす新たな感情と同化することにも恐れを抱いて抵抗し、また自我の中に余計な『すき間』を生み出すのです。

前回記事で紹介したように、感情を鎮めるために役立ついろいろな『クリアリングメソッド』があります。

感情から離れて『観察者』になるのが有効なこともあれば、逆に感情の中に飛び込んでみて、同化し、味わいつくすということが有効なこともあります。

ポイントは『視点』のコントロールです。

『視点』の切り替えは、思考の枠を外すとき、抽象度を上げるときにも役立ちますが、感情というものと付き合う上でも効果的なのです。

『視点』をうまく切り替えるだけで、自我は自然に調ってくれるようになります。

ただ、前述したように、視点を『無我』に向けても無我にはなれません。

『無我にたどり着こう』と考えて『瞑想』するのは間違いなのです。


瞑想とは、ゼロになるために行うもの


瞑想とは、どこかへたどり着くこと、何かを得ることなどの『意図』をもっておこなうものではなく『ゼロになるためにおこなうもの』です。

あなたがもし、悲しみに出会ったなら思い切り泣けばいいのです。

楽しいことがあれば、心の底から大笑いすること。

腹が立ったのなら、何かの行動に変えて誤魔化そうとせず、ただ怒りを味わってみる。

苦しみや悩みにも抵抗せず、自分をすべて差し出してやればいいのです。

あなたの存在を脅かす(ように見える)のは、苦しみ、悩み、悲しみといった感情ではなく、あなた自身の自我が生み出す思考です。

だからといって、自我のことをうとましく思ってはなりません。

自我というものもまた、あなたそのものなのです。

大切なのはしくみを知ること。

そして、受け容れ、許容し、ただ味わうことです。

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