こんにちは、さこっしーです。
地球ができて生命が誕生して以来、この星は進化の歴史を辿ってきました。
そうした中で、人類が誕生してからその進化のスピードは一気に加速しました。
生命の進化の歴史は『意識の進化』の歴史とも言えます。
身体的、生物的な進化の果てに、高度な脳機能を持つに至った人類は『意識の進化』を加速させるとともに『進化』というものの中に、テクノロジーや文明・文化という要素も持ち込んだのです。
物質文明・精神文明という分け方をされますが、これらは分けて考えるものではなく、それぞれが人類という種を考える上で重要な両輪を担います。
人類の進化のため、時代とともに人類が歩んできた道
『現実的なスピリチュアル』という観点からもとても大切なことですが、イデオロギーや宗教といった精神的な文明、科学やテクノロジーといった物質的な文明、その両方が、人類の『意識の進化』に深く関わっているのです。
原始的、動物的な生活を送っていた人類の祖先たちが、死者を祀ることや、アニミズム・自然信仰という形で生み出した精神文明は、人類という種に、他の動物たちには届かないような意識の進化を実現しました。
その一方で、道具や火の使用からはじまった物質文明も、人々の生活を変え、経験する『現実』というものを変えました。
本質的に、心と現実は同じものなので、物質文明の進歩によって、人類の意識の進化が押し進められたこともまた、否定できない事実だと言えます。
意識の進化のプロセスは、自我(エゴ:分離意識)を生み出し、そのエゴを肥大化させ、最終的に、その自我が全体意識に回帰し、調和するという道を辿ります。
『自我:エゴ』を失くすのが進化ではなく『エゴの肥大化⇒その呪縛からの解放』というプロセスを経ることによって、エゴをもったまま自然と調和させることが、人間という生命が到達すべき『悟り』や『覚醒』と表現できる意識レベルなのです。
その観点で人類の歴史を俯瞰すると、これまでに人間が生み出してきたもの、行ってきたことは、すべてが『意識の進化』のために必要なプロセス、必然のプロセスだったと言えます。
人間は、自分自身の経験を通して、初めてものごとを本当に理解します。
戦争を経験しなければ、戦争の愚かさは理解できないのです。
そしてもう一つ、重要な観点ですが、人類が生み出してきたもの行ってきたことは、すべて自然、この宇宙が、人間という存在を通して創造してきたものだということです。
戦争や貧困、差別というものを人類の業と考えたり、核兵器や原発を生み出したことを人類の罪と考えるのは『分離意識』に囚われた錯覚で、これらもすべて、この宇宙の意志、自然の摂理というものです。
これは、潜在意識内の記憶が現実化し、それに対して顕在意識の思考が『こんなことは私の望みではない』と考えてしまうのと、本質的には同じ現象です。
顕在意識が、潜在意識から独立・分離したものではなく、潜在意識が顕在化したものが顕在意識であるのと同じで、人間の行動や人生というものはすべて、自然から独立・分離したものなのではなく、どの瞬間も自分の心と身体と魂を通して、この自然の摂理、宇宙の意志の発現者として『いまここ』に存在しているというわけです。
そういう観点で俯瞰すれば、宗教というものも、前世療法などのスピリチュアリズム、引き寄せの法則といった成功法則なども、すべて、『意識の進化』のプロセスの中で、大いなる意志の元に生み出されてきたものだとわかります。
宗教は、一部の準備が調った人間に『悟り』をもたらし、そのレベルに満たない人間たちには
エゴの肥大化を促します。
前世療法、生まれ変わりや過去生といった思想も、一部の人間には救いや悟りをもたらします。
僕自身は、人間が生まれる前、死んだ後にも『意識』というものは永続するものだと考えますが、それが直線的に、特定の人間から特定の人間に生まれ変わるという考えは、少々短絡的だと思っています。
ただ、そう考えた方が理解しやすく、それによって救われ、心の平安を得られる人がいるのは事実で、そういう意味では立派に役割を果たしていると考えてます。
僕の場合は、宗教でもスピリチュアリズムでもなく、引き寄せの法則が、意識の進化『覚醒』への扉を開くきっかけとなりました。
冷静に考えればわかるのですが、引き寄せの法則には『エゴを肥大化させる』というワナが巧妙に隠されています。
世間の『引き寄せ』信者を見回すと、この法則をエゴを満足させるために使おうと考える人が多いことにも気づきます。
僕も同じだったからこそよくわかるんですけどね。
『巧妙に隠されている』というところがミソで、一見ポジティブな人が、引き寄せ教にハマればハマるほど、自分でも気づかないうちに、無自覚なままにエゴを肥大化させていってしまうのです。
引き寄せ教にハマるということは、人生を自分の思う通りに展開させたい、ってエゴが出発点にあるわけですから。
ただ、エゴが悪いと言ってるわけではありません。
これも実は、意識の進化のためには必要なプロセスで、人生の主導権をエゴからセルフに移すためには、まず、エゴの肥大化を経験しその呪縛から解放される必要があるのです。
ポジティブに見える人ほど、自分のエゴを押し殺して生きています。
ですが、その状態は『エゴを見ないふり』してるだけで、エゴの呪縛から解放された状態ではないのです。
押し殺しているだけに、何かのきっかけでそれが大きくふくらんでしまう危険もあるのです。
こういう具合にそれぞれが、人類の意識の進化のために必然のプロセスとして、時代背景に合わせて世の中のブームになっているということです。
これは、思想的なものだけではなく、インターネットなどのテクノロジーの進化も関連し、リンクしながら進んでいることです。
500年前の世界に生きる人たちと現代に生きる人たちは、生物学的には同じ人間かもしれませんが、その人を取り巻く思想やテクノロジー、集合的無意識や現実環境が大きく変わっているのです。
心や身体は、ご縁によって成り立つもの
人間というものは、心や身体といった『個体』だけで成立するものではなく、集合的無意識やその人を取り巻く現実環境、その人を中心につながる『縁』によって成立するものです。
これが下記の記事に書いた『大きな我』や、仏教思想の中の曼荼羅と呼ばれる概念です。
たとえば、500年前に生きる人たちが大切な人を亡くしたり、人生の苦難に出会ったとき、その経験を『意識の進化』のための学びに昇華させる触媒は、多くの場合『宗教』への信仰だったでしょう。
現代の世界を考えてみればその触媒の数が、精神文明や物質文明の進化のおかげで、驚くほど多様化していることに気づきます。
もちろん、多様化の副作用として情報のノイズが増えてしまっているということもありますが、全体としてみれば『意識の進化』が進みやすい環境になってきているということはわかります。
恐らく、500年後にはもっとさらに進化した環境になっていることだと思いますが、現代に生きる僕らがそのことをうらやむ必要はありません。
人間というのはいつの世も、それまでの歴史の中でもっとも進化した最先端に生きることのできる存在なのです。
不確定で『現実』ではない未来を見れば、未開な文明環境に生きていると卑下することもできますが、その代わりにこれまで生きたすべての人たちよりも進化した最先端の文明環境に生きていることへの『感謝』を選ぶこともできるのです。
これも、選択の自由というわけです。
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